円空の生涯
円空は、寛永9年(1632年)に美濃国郡上郡の南部、瓢ヶ岳山麓(現在の郡上市美並町)で、木地師の子として生まれたと伝えられています。木地師とは、お椀などの木工品をつくる 職人のこと。円空が木のことをよく知り、彫刻に生かしているのは幼いころから山で遊び、木に親しんできたからこそと考えられています。
円空は粥川寺で経文や手習いを教わり、成長すると伊吹山や白山で山岳修行を学びました。寛文3年(1663年)、32歳のときに粥川寺で得度し、仏門に入ると、この地を中心に北海道から近畿まで全国各地を遊行して修行をしました。晩年は美濃国に戻り、元禄8年(1695年)、64歳のときに関市の長良川畔で入定を遂げたと伝えられています。
円空と木食
円空は山岳修行を学び、修験道への理解を深め、「木食戒」を受けたとされています。木食は、山中修行から生まれたもので、山中の木の実や山草を取って食べることから生じたもの。円空は木食戒の請願を行い、一か所に住まずに全国を旅する遊行や、仏像作りを生涯続け、精進しました。
円空のふるさと、美並
円空が残した仏のうち、現在確認されているものは全国で約5千体、そのうち、岐阜県には約1600体もの円空仏が残されています。美並町に残されている円空仏は、現在160体余りあります。初期の木地人形から、晩年まで、幅広い年代の円空仏が残されているのが特徴で、円空がここから各地へ出かけては帰ることを繰り返したことが分かります。