変わりゆく山と里の境界線。日々山に入る若き猟師が見つめる50年先の郡上の山と暮らしとは。
「むかしむかし、おじいさんは山へ柴刈りに…」で始まる日本昔ばなし。
「柴刈り」とは低木を切ったり、枯れ枝を焚き木として使うために拾ったりして山の雑木林を手入れすること。
食料から燃料、腐葉土まで何でも調達できる山ゆえ、ひと昔まで柴刈りは生活の一部だった。
その言葉が死語になった今、山は荒れ、生態系の変化は著しい。
"いま、獲ることで守られる未来の山"とは―。日々入山する若き猟師の視点で見つめる。
郡上市白鳥町六ノ里。
霊山、白尾山の山麓にあり、長良川の支流牛道川に沿って開けているこの集落は東西の谷あいに位置し日照時間が長く、冬も日が沈むのが遅いのが特長だ。
水良し、日当たり良しとなれば農作物を育てるには最適だが、山に囲まれているため平地が少ない。そのため、戦前までは稲作耕地を何とかして増やそうと集落がこぞって開墾し、棚田を広げていった。
戦中戦後の混乱と物資不足の影響もあり、郡上の山々も次第に禿げ山となった。
山の様相が一転したのは、第二次世界大戦の戦後復興から高度経済成長期だ。
戦争が終わり、禿げ山に緑を取り戻そうと成長が早い針葉樹のスギやヒノキを植林。さらに、経済発展優先の流れから住宅用建材を中心に木材が不足し、広葉樹を大規模伐採した。
「郡上市森林整備計画」(2022年3月末更新、郡上市策定)によると、森林面積が市の総土地面積の約9割を占める郡上において、民有林面積の実に55%が人工林となっている。
この頃の急激な拡大造林の遺物が大木に成長して山を埋め尽くす形となり、現在に至っているのだ。
六ノ里のベテラン猟師らから「郡上で一番狩猟をする男」と言われる松川哲也さん(41)=白鳥町六ノ里出身、現在住=。
「僕はもともと獣害対策から狩猟に入った」と話す松川さんは、里の環境を守る目的で猟師を始め、今年で6年目。
生まれてもいない50年前を境に、故郷の山の自然環境がガラッと変わったと先輩猟師から聞かされた。
人々の生活圏が歩いて動ける範囲内だった昭和初期までは、六ノ里も農業で生きている集落だった。
山の中腹付近まで段々畑や棚田として耕作され、薪炭を生産して燃料にしていたことで、野生動物が生息できる空間は狭い状況だったといえる。
里山が緩衝帯として機能し、獣類が接近しにくい環境がつくられていた。
しかし、戦後の働き手となった若者たちは高度経済成長で都会へと出稼ぎで流出、農業をしていた親世代の高齢化も進み稲作耕地に人の手が入らなくなっていく。
加えて薪炭に代わって化石燃料が使われ、社会経済の情勢が大きく変化した。
所狭しと広がっていた六ノ里の棚田はぽつりぽつりと耕作放棄地が目立つようになった。
「草刈りがされていれば見通しは良く獣も出てきにくいが、下草がニホンジカ等の良い餌になるので夜間等に出てきやすい」と松川さん。
耕作放棄地や集落近くまで拡大する山林には獣が身を隠しやすく、日中にも潜んでいる可能性がある。
生活上の必要性が薄れた山では個体数が拡大し、見通しが悪く暗い場所が増えた里がエサ場や繁殖の場になり、移動経路になった。「手の入らないところが増える=獣の生息域が増えるということ。里と山の境界線があいまいになった」と話す。
猟師の坪井富男さん(73)=郡上市大和町大間見=は約50年前に狩猟を始め、ニホンジカの生態、生息環境を長年見つめてきた一人。
坪井さんによると「半世紀前、人が山に狩猟で足を踏み入れるのは主に冬だった」が、30年程前からカラスやイノシシが増え、一年中獣害対策で山に入るようになったのだそう。
正常は”草木が生い茂る山”に餌があるが、半世紀前の拡大造林で地面に光が入らなくなった森林は植生が衰退。ドングリなど、野生の動物たちの好物である餌資源が急激に乏しくなった。
一方で森林内に公道が舗装され、人間の生活との密着度が高まったことで”里にある野菜くずや廃果”が無意識な餌付けにつながっている。
坪井さんが猟師歴浅かりし頃、大和地域だけで鉄砲打ちが60人いた。
「当時は冬といえば狩猟で、山へ行くグループ(巻狩り)がたくさんあった」
ニホンジカは今でこそ「有害鳥獣」と呼ばれ、狩猟や有害鳥獣捕獲の対象となっているが、戦後から1990年代初頭まで野生動物保護の観点から捕獲は制限されていた。
そのため、長い間狩猟の対象はもっぱらイノシシだった。全国的に猟具として「箱わな」が出始めると、みんなお金の出るイノシシを成獣・幼獣問わず大量に捕まえるようになった。
しかし80年代から山林や農地ではニホンジカによる食害が出始めており、山に入る猟師らは早々にニホンジカの駆除をと訴えていた。
「『鳥獣保護法』によりメスは捕獲禁止。オスは1日1頭と決められとって、猟師といえども自由に捕獲できんかった」(坪井さん)
メスジカの有害鳥獣捕獲がやっと認められたのは1994年のこと。それ以来、各自治体で有害鳥獣としてのニホンジカの捕獲が行われるようになった。
岐阜県においては2012年、「岐阜県野生鳥獣保護管理推進事業」が策定され、個体数調整捕獲事業の一環でニホンジカが捕獲報償金の対象になった。
2019年には、家畜伝染病「豚熱(CSF、豚コレラ)」が県内で発生し、感染源の一つにみられているイノシシの捕獲頭数が激減した。生息域が縮小したイノシシに代わり、ニホンジカがそれまで生息域ではなかった地域にまで繁殖し、個体数は拡大し続けている。
野生動物と人間の共生関係を守るのが猟師だと考える坪井さん、松川さんらは、捕獲個体の利活用の観点からも「銃猟に出るときはできるだけ大きい個体を獲るように心掛けている」と言う。
捕獲に報償金を出す仕組みができ、「箱わな」で母親も子どもも一網打尽できる、野生動物の狩猟は趣味から金儲けになるという意見もはびこる中、松川さんは冷静に山と向き合う姿勢を持つ。
「ディアラインという言葉を知ってますか?検索してもらえればどういうものか分かると思うのですが、六ノ里の山々もかなりやられてます」。
ニホンジカが全国的に増加するに伴い森林の植生が破壊され、生物多様性の衰退、土壌侵食などさまざまな影響が報告されている。
六ノ里も例外ではない。
ぱっと見ただけではわからないが、剥皮被害は深刻だ。
ニホンジカの頭が届く高さから下をよく見ると、山の色が違って見える。
ヒノキの葉や藤の木のつる、ドウダンツツジ、高山植物に至るまで、林床に生えるニホンジカの好む植物は食べられてほとんど無くなってしまう。
「こうなると、昆虫の生態系も狂ってきてしまう」と松川さんは危惧する。
生態系の健全な調和のため、獲る側の猟師人口も安定的に必要となるが、
「大和地区はこの50年で16人にまで減った。自分らの息子世代である50代が少ない。余裕がないとできんし、鉄砲を引いてみんと向いとるかも分からんのが猟師やでな」
と坪井さんは力なく笑う。
取材中、松川さんが何度か口にした言葉があった。「自然のものを生かしていく」
「個人では動けないし、動かせない」と前置きしながらも、「耕作放棄地に人の手を入れ、自給自足で地域がまわっていく、集落が集落として生きていくこと。食っていけて、死なない暮らしが50年先の六ノ里の環境になっていればいい」と話した。
名古屋市で学生時代を過ごし、のちに美濃市で暮らしながら郡上市消防本部で救急救命士をしていた時、東日本大震災が発生。消防の応援で被災地入りし、「元気な今をどれだけ自分らしく生きるか」だと考え、故郷六ノ里にUターンした。
「自分が六ノ里に戻って思うのは、きれいな田舎じゃないと住む人も住みたい人も『今の暮らしを守っていこう』とはならないと思う」
山を守り、生き物を守り、地域を守る六ノ里の集落。
そこで生きる猟師らは日々山に入り、次の50年、100年先の山と里のあり方を見据えている。
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